幼稚園から小学校への移行期間、両教育機関の教育者たちの子供達の捉え方の違いが児童の小学校への不適応につながっているのではないかという仮説を立証する。
過去に行われた研究では、主に母親を対象として幼児教育に対するアンケートを実施しているが、
学校への適応という面で多大な影響を与える教員へのアンケート実施はない。
したがって本研究では、両教育機関の教員に児童の捉え方に対する差異を調べ、
移行の主体である子供にも面接を行うことで子供自身が感じる両教育機関に対する差異も調べる。
担任教師による園児・児童の個別的行動評価について。
●自己抑制/フラストレーション耐性
他の人と同じもの(お弁当箱や服など)を欲しがる→
小学校教師よりも幼稚園教師が有意に高い評価を下した。
(つまり、幼稚園児の方がこのような行動が多い)
●自己抑制/持続的対処・根気
人の真似をする→
幼稚園教師よりも小学校教師が有意に高い評価を下した。
・幼稚園児の時点で他の人と同じものを欲しがるという行動に興味が湧いた。
なぜ欲しがる?いいと思うから(?)「あの子も持っているから買って」
・人の真似をする、がなぜ持続的対処・根気に分類されているのか?
子供は絵本の読み聞かせを通じてどのような反応をするのか、絵本レビューを分析。
年齢別に発達心理学の観点からその反応を分類する。絵本が子供に発達的な効果を及ぼすことを検証した。
本論文では、子供の年齢別に反応特徴を分類している。
さらに、レビュー記述が多い反応を特徴的表現とし、1歳前後では視覚刺激への反応、2歳前後では真似、3歳前後ではごっこ遊びに注目している。
絵本のレビュー(子供の反応を示したもの)と発達上の反応特徴(特徴的表現の3つ)には相関が見られ、絵本が子供に発達的効果を及ぼすことが明らかとなった。
・絵本以外でも子供が真似をするための素材は?→それと発達心理学の関連?
(親、テレビ、動物、外部的な要因)
・1歳前後でふり・つもり行動、2歳前後で真似、つもり行動、簡単なごっこ遊び、3歳前後でごっこ遊びをするという点に興味を持った。
・子供が真似をするというのは誰に教えられるわけでもなく、潜在的なもの?
(言葉、母親の口調、など)
・子供が何かの真似をする→周囲(家族)は可愛いという感情で嫌悪感は抱かないだろう。
・真似をされて嫌な気持ちになるのは、友達でも嫌?家族なら?親友なら?
・「真似る」という行為に段階はある?
人間は模倣する動物だと言われる。誕生直後の新生児でさえ模倣する。
反復し、模倣することで、その行為が持つ意味を共有しようとする。
表面的な形態の模倣から、その背後にある内面的世界を共有する模倣へと発達する。
本論文は生後2年目までの赤ちゃんに焦点を当て、そこで観察される模倣行動の発達とその発現メカニズムについて解説する。
① 古典的模倣理論
<道具的学習論>バイバイ→親が嬉しそうな反応をする・・・強化刺激
<連合学習論>発生の模倣→赤ちゃんの「ア、ア」という発声の後、親が同じように同様な音声を言い返す。
このやり取りが赤ちゃんに自分の発声と親の発声とを連合させる。
<ピアジェの発達論>
☆学習によらない自発的模倣行動の発達を論じた
第一水準:自分が見たり聞いたりできる自分と相手の身振りの模倣
第二水準:顔の模倣が可能(自分の顔を見ることができないという点で第一水準と区別)
第三水準:表象能力(見えなくなった目標行動と見ることのできない自分の協応を可能にさせる)を基盤に可能になる模倣→延滞模倣
② 原初模倣
③ 自己模倣
自分自身の行動の反復再現という模倣形態。
④ 形態模倣
赤ちゃんは自己模倣の世界を体験しつつ、他者行動の形態模倣を行う。
⑤ 意図模倣
他者の意図を模倣学習と通じて理解する。
*引き離そうとする実験、チンパンジーと2歳児の実験など
人間の子供の模倣の発達は単なる身体形態の真似の高次化ではなく、
意図形態の模倣の発現を含み、心による同型的な世界の共有関係の高次化を目指すのである。
・模倣が本能的なものであることがわかった。
・模倣は学習、発達に必要不可欠である(身体的、精神的に)
・じゃあ、本能的ではなく、意図的に真似をしたいと思うのはいつ頃から?
パクリと言う語に関する考察を、音楽を例に行う。本論文は3つの問題を提議している。
●一つ目は日本語の「パクリ」概念の歴史と意味の変容である。
このパクリと言う語はもともと盗みやかっぱらいを指す隠語として明治末期から大正期の都市部の不良たちの間で用いられた言葉であった。
したがって、現在の意味とは少し異なる。
しかし、文化が経済的な要素を持つようになった80年から90年代になると、
パクリは単に剽窃をカジュアルに言い換えた新しい言葉ではなく、文化を経済的な次元へと還元し、その経済的な盗みを非難する際に使われる言葉となった。
●二つ目は音楽の人為的模倣と法的判断についてである。
日本で今までに音楽の著作権侵害として裁判になった事件は2件であるが、
一方は偽作となりもう一方は偽作では無いと判決された。
対照的な二つの事件であるが判決までに辿った経路は同じである。
両裁判はどれくらい類似しているか(音程やリズムなど)という比較よりも、
その楽曲(真似された側)にどれだけの知名度があったか、という点で議論された。
すなわち、偶然の一致は著作権侵害とならないため、真似した側の作者は元の楽曲を知っていたか、否かが非常に重要になってくるのだ。
ゆえに、「どれだけ類似していれば法的には「同じ」であって、どれだけ違いがあれば法的には「別のもの」なのか」という問いは、
定量的な基準によって計られるというよりも文脈的な判断に依るものと考える方がしっくりくる。
●三つ目は「類似」の論理構造である。
二つの対象が類似しているとはどういう意味か?
醜いアヒルの子の定理によると、類似性とは客観的な性質ではなく、我々の主観が構築する性質であるとしている。
また家族的類似によると我々が認知する「類似」とは、対象に属する無数の要素のうち、
どれか特定の要素(群)を選び出し、重み付けして評価した結果現れるものである。としている。
これらの考察から、パクリ批判というのはどれだけその楽曲が類似しているか(リズムや音程など)よりも、
その楽曲が置かれた状況によって左右されるということがわかった。
・音楽だけでなく、誰かによって作られたものがパクリとされ問題になるのは近年では非常に多くなっている(インターネットの普及によって)が、パクリか否かの判断がその背景や、個人の主観によるもの(例えそれが法的な場面であっても)というのがよく理解できる論文だった。
・パクリか否かがその知名度によって左右される
→他の子と同じことで得られる感情
人気者であれば・・・憧れ、ワクワク
そうでなければ・・・個性がなくなった、あの子とお揃いか…ガッカリ(?)
島根と大阪の女子短大生のファッションに関する意識調査から、流行の取り入れに関して比較検討をする。
本論文では流行を取り入れて装うことをファッションという言葉で形容している。
「個性化の時代」と言われる現代、若者は流行をそのまま取り入れるのではなく、
自分なりのオリジナルなファッションに変えて着装しているものと思われる。
島根の女子短大生は大阪に比べて流行に対して消極的であることが明らかになった。
(流行の採用時期に関する質問・・流行の最盛期を過ぎてから、流行は採用しない)
・論文の書かれた時期が古すぎるため、SNSなどが発達する前(ファッションを取り入れる最大の情報はファッション誌であった時代)の情報、
アンケートであることから現代とは大きく違った結果が得られる可能性がある。
・流行というより、ファッションに関しての論文だった。
・個性化、という点において、人と違うファッションをしたいですか、流行の色やデザインの服を着たいですか、似合わなくても仲間と同じ服装をすることがありますか、などの質問は興味深いので、自分でアンケートを作る際にも参考にしたい。